弁護士 馬場 陽[1]
(事案の概要)
Xは、美容室を営む株式会社であり、平成22年4月、美容師であるYとの間で雇用契約を締結しました。この時点で、Yが退職した後の競業避止義務は定められていませんでした。
Yは、令和元年9月7日、X代表者の意向で設立された合同会社Bとの間で、契約期間を平成31年4月1日からとし、業務内容を〈1〉カウンセリングセールス、〈2〉クリンネス業務、〈3〉開店準備業務、〈4〉顧客管理業務、〈5〉広告宣伝業務、〈6〉材料等発注業務及び在庫管理業務、〈7〉これらの業務に付随する一切の業務とする、期間の定めのない雇用契約(以下「本件雇用契約」といいます)を締結しています。
XとYは、令和元年10月3日、XがYに美容師業務を委託する内容の所属アーティスト契約(以下「本件アーティスト契約」といいます)を締結しています。本件アーティスト契約の期間は平成31年4月1日から2年間とされ、自動更新とする旨が定められていました。また、本件アーティスト契約には、「Yは、契約期間中及び契約終了後2年間は、Xの本社及び営業所の所在地から半径5キロメートル以内において、原告の許可なく、同業他社に就職し、同業他社からの業務を受託し、又は同業を開業してはならないこと」と定められ(以下、「本件約定」といいます)、Yが本件約定に違反した場合には、Yは、Xに対し、300万円の違約金を支払うことが定められていました。
Yは、令和元年11月頃、X代表者に対し、本件アーティスト契約を終了させて本件店舗を辞めたい旨を告げていましたが、X代表者は、人手不足等を理由にこれを認めませんでした。本件アーティスト契約は、令和2年12月31日をもって合意により終了しました。
Yは、令和3年1月6日頃から、東京都内の「F」という店舗で、美容師として稼働しました。同店舗は、Xの本社から半径5キロメートル以内に所在することが認定されています。
そこで、Xは、Yに対し、競業避止義務違反を理由として違約金300万円の支払いを求めました。
(判決の要旨)
裁判所は、まず、Xが平成31年3月31日以前から本件店舗の美容師と雇用契約を締結していたが、美容師を社会保険に加入させておらず、時間外手当を支払っていなかったことを認定しています。そして、平成31年3月18日、本件店舗で働いていた美容師全員を対象として行われたXの説明会(以下「本件説明会」といいます)において、Xから委託を受けた株式会社A社の担当者が、参加した美容師8名に対し、「現在の雇用契約のまま社会保険に加入することとなると、実際に受け取る給料の額が減ることになるが、今回同社が考案した契約スキームを利用すれば、社会保険料の控除額を減額することができ、手取り額を増やすことができること等を説明した」と認定しています。また、当時本件店舗で働いていた美容師9名のうち、平成31年3月31日以前の雇用契約を継続した者は1人もおらず、Xとの間で本件アーティスト契約と同様の契約を締結したか、またはXを退職したかのいずれかであったこと、遅くとも令和5年3月16日までの間に、この9名の美容師は全員本件店舗を辞めていることも認定されています。裁判所は、以上の認定事実を踏まえて、以下のように判断しました。
「……本件アーティスト契約においては、本件約定による競業避止義務が設けられているところ、原告と被告との間の当初の雇用契約においては、被告にそのような義務は課されておらず、被告が本件店舗で勤務するようになって9年以上が経過した時点で、原告から本件アーティスト契約締結の申入れがあり、被告がこれに応じたものである(……)。一般に、雇用契約においては、使用者と労働者の地位が必ずしも対等とはいえないことから、労働基準法その他の法律によって使用者の契約自由の原則に対する種々の制約が設けられている等に照らせば、本件約定の有効性を検討するに当たっても、前記認定の事実関係を踏まえ、従前の雇用契約において労働者であった被告が契約変更を余儀なくされ、不当に競業避止義務を課されることとなっていないか否か、競業避止義務の代替措置が十分に執られているか否かを検討する必要があるものと考えられる。
以下では、このような観点から、本件約定の有効性について判断する。
まず、前提事実……のとおり、本件雇用契約においては、契約締結日が令和元年9月7日であるにもかかわらず、契約期間の始期がそれ以前の平成31年4月1日となっており、本件アーティスト契約においても、契約締結日は令和元年10月3日であるにもかかわらず、契約期間の始期はそれ以前の平成31年4月1日からとなっているものであり(……)、これらの事実は、原告代表者が従前から本件店舗で働いていた美容師に対して有無を言わせないという態度をとっており、また、アーティスト契約についても、本件店舗で引き続き働くためにはその締結が必須であり、その例外は認めないという態度をとっていたことを窺わせるものといえる。
また、……原告においては、従前は本件店舗で働いていた美容師を社会保険に加入させておらず、かつ、時間外労働手当を支払っていなかったところ……原告が従前の雇用契約から本件契約スキームの採用を決断するに至ったのは、このような違法状態を解消することが主たる目的であったものと認められる。このように、原告が本件契約スキームを採用することになった経緯等に照らしても、被告を含め、本件店舗で働いていた美容師において、アーティスト契約を締結するか、従前の雇用契約を維持するかの選択権が実質的に保障されていたとは考え難い。
これらの事実に加えて、本件雇用契約及び本件アーティスト契約のいずれにおいても、その契約期間の始期は本件説明会が開催された日の二週間後とされており、十分な検討期間が保障されていたとはおよそ言えないこと……、本件説明会が実施された当時本件店舗で働いていた美容師9名の中で、平成31年3月31日以前の雇用契約をその後も継続した者はおらず、かつ、前記美容師9名は本件訴訟において本人尋問が実施されるまでの間に全員が本件店舗を辞めていること(……)、被告は、令和元年11月頃には、原告代表者に対し、本件店舗を辞めたい旨を告げていたのに、原告代表者の意向により、被告の退職時期が令和2年12月末日までずれ込んでいること(……)も併せ考慮すれば、原告代表者は、被告を含む前記美容師9名に対し、本件店舗で引き続き働くためにはアーティスト契約(業務委託契約)への移行が必須であり、その例外は認めないという強い態度をとっており、このため、前記美容師9名には、事実上、原告が提示するアーティスト契約を受け容れるか、本件店舗を辞めるかの選択肢しか用意されておらず、従前の雇用契約を維持するという選択肢は認められていなかったことが強く推認される。
以上の認定事実(本件アーティスト契約が締結されるに至った経緯等)に加えて、本件約定に基づく競業避止義務がその期間及び場所的範囲に照らし相当程度重い内容のものになっていること(……)を併せ考慮すれば、これに伴う代替措置の内容及びその程度を検討するまでもなく、本件約定は、公序良俗に反し無効である……」。
(解説)
本件では、雇用契約から業務委託契約に切り替える際に新たに設けられた競業禁止特約の効力が争われました。本件で無効とされた競業禁止特約の内容は、「契約期間中及び契約終了後2年間は、Xの本社及び営業所の所在地から半径5キロメートル以内において、原告の許可なく、同業他社に就職し、同業他社からの業務を受託し、又は同業を開業してはならない」というものであり、Yが競業禁止義務を負う範囲について、時間的・場所的な限定が設けられていました。
本判決は、「一般に、雇用契約においては、使用者と労働者の地位が必ずしも対等とはいえないことから」、「本件約定の有効性を検討するに当たっても」、(1)「従前の雇用契約において労働者であった被告が契約変更を余儀なくされ、不当に競業避止義務を課されることとなっていないか否か」、(2)「競業避止義務の代替措置が十分に執られているか否かを検討する必要がある」としています。
(1)について、本判決は、X・Y間の雇用契約が業務委託契約に切り替えられた経緯を詳細に認定し、「本件店舗で働いていた美容師において、アーティスト契約を締結するか、従前の雇用契約を維持するかの選択権が実質的に保障されていたとは考え難い」ことを述べ、Yにとっても「従前の雇用契約を維持するという選択肢は認められていなかったことが強く推認される」としています。
本判決は、上記に加えて、「本件約定に基づく競業避止義務がその期間及び場所的範囲に照らし相当程度重い内容のものになっている」ことを指摘し、(2)について検討するまでもなく本件競業避止義務特約を公序良俗違反としています。競業避止義務の期間および場所的範囲については、①同一都道府県で1年間の競業避止義務を認めた裁判例(東京地裁令和7年3月26日判決・判例時報2634号49頁)、②同一都道府県内および退職時の勤務地から半径10km以内で1年間の競業避止義務を認めた裁判例(東京地判令和5年2月2日D1-Law)があります。それらの裁判例とのバランスを考えると、Xの本社および営業所から半径5キロメートルの範囲で2年間競業を禁止すること自体は(Xの営業所の数によっては)決して厳しいものであるとはいえないという評価もあり得たように思います。それにもかかわらず、本判決は、本件約定に基づく競業避止義務が「その期間及び場所的範囲に照らし相当程度重い内容のものになっている」と評価しています。300万円という高額な違約金を設定していたことが、公序良俗違反の判断の決め手になったのではないかと推測されます。
美容師の競業避止義務違反による使用者の損害を6万円と認定した東京地裁令和7年3月26日判決・判例時報2634号49頁(前記①)と併せて、競業禁止特約の有効性を考える上で、参考になる事例であると思われます。
(2026年8月24日)
2026年8月24日の法令に基づく解説です。
[1] 大津町法律事務所(愛知県弁護士会所属)